たまりば

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2014年03月02日

インド進出をサポートする小野寺兼一郎氏

 インドは、未来的に最も強大になる可能性を秘めた国のひとつです。
年齢別人口を見てみると、完全にピラミッド型になっています。つまり、若者が多いということなのです。
若者が多いとどうなるかというと、人が集まり、元気よさが芽生え、発展せざるをえなくなるのです。
インド共和国の都市の中でも、特に今注目されているのが、 タミルナドゥ州チェンナイ(マドラス)です。東インド洋に面しているということもあり、その便利さから日産や三菱などの日系企業を始め、三星やノキアなど、海外から急激に資本が入ってきています。
 近年問題視されている、PM2.5などの問題もタミルナドゥチェンナイにはなくインドの中で最も日本人が住みやすい町の一つに選ばれています。

 さて、そこでどのようにしたらチェンナイに進出するのでしょうか。一番早い方法が、チェンナイ在住の信頼できる日本人に支援してもらうことではないでしょうか。

 私も、インド料理が好きで、よくインド共和国を訪問するのですが、やはり現地の日本人と話すと様々な情報が得られます。株式投資、不動産投資、銀行口座開設、居住方法など、日本にいたら考えられないアドバイスを得られることがあります。
 私が、必ずチェンナイに行くとサポートを受けるようにしている方は、ハッピーグラナイトインディア株式会社の設立者、小野寺兼一郎社長です。
 彼は、日本のインディア進出という使命を持ち、35年前にインド共和国に渡印しました。インド共和国でビジネスを行いながら、35年、外国人だということで、様々な騙しにあい、それでもインドを嫌いにならず、尽力してこられた方です。
 今、チェンナイで最も有名な在留日本人は、小野寺兼一郎社長ではないでしょうか。
私は、彼の支援を受け、これからもインドビジネスに対して、努力していこうと思うのですが、最後にチェンナイ(旧マドラス)の歴史について紹介したいと思います。

 1世紀の始めころ、チェンナイは経済と政治の重要な中心地でしたが、その後に南インド共和国の王国パッラヴァ朝、 チョーラ朝、パーンディヤ朝、そして最後にヴィジャヤナガル朝の諸王朝に統治されていきました。ポルトガル人がこの地に来て、 貿易の港を作ったときから1522年に全てが変わりました。オランダ人が次にやってきたヨーロッパ植民地勢力でこの地への 支配力を発揮し、1612年プリカットの近くに拠点を建てたのです。

 1639年8月22日、近代、チェンナイが生まれました。この日にイギリスの東インド共和国会社はチャンドラギリのラジャから海岸のほんの少しを与えられたのです。 すでに,小さな漁村マドラス パトナムという村が、領地の中にありましたが、セントジョージ 要塞をそこに建設し、 その後すぐに植民地のジョージタウンへと発展していきました。

 18世紀と19世紀を通して、イギリス と フランスはインド共和国をめぐって植民地争いを繰り広げていました。 チェンナイの繁栄と衰退は、両者の政治的情勢によって左右されましたが、19世紀中ごろには、 イギリスがインドを安全かつ安定的に支配するようになりました。当時マドラスとして知られていたチェンナイは、 大英 帝国植民地インディアの四つの地域のうちの一つとなりました。

 イギリス植民地支配下で、チェンナイ(マドラス)は重要な都市としてまた海軍基地として発展しました。列車が19世紀後半に敷設されたころ、チェンナイはボンベイ(現ムンバイ)や カルカッタというインドのその他の主要都市とつながりました。これを期にチェンナイはさらなる経済発展を遂げ、それは1947年の独立の時期を通して続いていきました。 チェンナイはそのころ、現在のタミルナドゥ州の州都になりましたが、まだマドラスとよばれていました。1977年に,政府はチェンナイと改名しました。 2004年にはインディア洋沖地震による津波がチェンナイ周辺の海岸を猛撃し、この地域は大打撃を受け、海岸線沿いの地形は,永久的に変わってしまいました。

 またインド料理もお勧めです


Posted by karenking1 at 14:09│Comments(0)
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